20231016

今日は朝早く出なくてはいけなかったので寒いだろうと思い上着を着て出たら30分もしないうちに汗だくになって、昼時には夏になっていて失敗した、と思った。明日は成功したい。

 

今日は合計で電車に3時間くらい乗っていたと思うが、ほとんど寝ていた。寝ていたというより、意識を遠ざけていたような感覚があった。周りの声や自分の外の状態は常に意識しているのだけども、それ以外の余計な意識、つまり自分の内部に関わることはシャットアウトしているような状態だった。

 

昨夜から「われらレギオン1」を読み始めた。こういうなろう小説が読みたいなとずっと思っていたような内容で驚いた。人外転生で、SFで、ギークで、主人公がクレバーで、という、そういう内容だ。開拓的な要素もあり、好きな要素がてんこもりという感じ。海外の独特の言い回しも雰囲気があって良い。いつも思うが、海外の小説は全部こうなのか、それともこれだけがこうなのか。もし前者なら、僕はかなり損をしていると思うが、僕が前者だと思っているとき、世界はだいたい後者なのだ。嬉しくはない。

 

昨日何かの拍子に裏垢という概念が面白いと思った。アカウントを長く続けていくと自己イメージが確立されていき、自分からのフィードバックループによって自己イメージが強化されてしまい、その積み上げられたイメージを個性だと思って演じてしまうということがある。どうせ演じるならなんだっていいという自由さが、人格には本当はあるのに、今まで慣れ親しんだ「この自分」というものからなかなか離れられないでいるのだ。しかも「この自分」は必ずしも自分の癖や生理的な傾向に完全にマッチしているわけではないので、そのアンマッチが不幸を生む、ということは往々にしてあるのだと思う。裏垢というのはそのアンマッチさの一つの現われであると考えられる。アンマッチによって「この自分」ではない自分を否定するというのも現れだ。しかし「裏」垢というからには、裏垢だけではだめだ。やはり表があっての裏なのだと思う。(言葉遊びにすぎないと思われたでしょう。そのとおりだ。)裏垢ばかり運用していても、それはそれで「その自分」と倫理的で常識的な表の自分との乖離に苦しむことになるに違いない。人の本性という言い方があるが、表と裏ならどちらかといえば裏のほうが本性っぽいというのは直感的には理解できる。だが表も裏もどちらも本性ではないのだと思う。どちらにせよ表なのか裏なのか、ある程度確立された自己イメージに従って半分自動的に無意識的に演じているにすぎない。ではどこに自分がいるのか、まるでものまね芸人が自分自身を見失うかのようなイメージが思い浮かぶ。どこかにプレーンな生地の、ジャムを乗せる前の食パンやホットケーキがあるはずだ(具なしのサンドイッチが)!フィードバックループを受ける主体、苦しんだり喜んだりする主体。それは受け皿であり意識されることは無いし、いわゆる人格っぽさを持たない。自分は本当は器であって、その中に自分のようなものが注がれていく。注がれたものはやがて味を主張し始めて、器はだんだんとその味を自分だと思い込み始める。しかし容器は容器なのであって、そのなかにある水は容器ではないのと同じように、自己イメージというのはやはり水にすぎず、真の自分というものがあるとしたら、それは容器のほうなのではと思う。無機質で自動的な透明なプラスチックの・・・。