日記『2019/6/15,16』

歌詞のある曲を聴きながら短歌を書いたら自分が全然本当には思ってもない言葉とか感情がすらすら文字になって目の前に現れてきて変だった。最悪の俳人がいるとしたらこんな感じだろうな。「言ってるだけなのに本当に思ってるみたいだな」とか絶対俳人に言ってほしくない。

なんかそういう幻想が僕にはある。理想の芸術家のイメージというか。芸術家が芸術家としてやってる以上その表現は全部心の底から何かに耐えきれずに漏れ出たものとして吐き出されたものとしてこの世に現れたのだと思いたい。実際にはかなり理性的な計算とかテクニックがそこにはあって直接的に作者の思いであるような部分はほんの一部分なのではないかと思う。まあ吐き出し型の人もなかにはいるんだろうけど、期待して裏切られたら嫌だから全部計算なんだと思っておく。

一定のクオリティのあるものって全部計算の結果じゃないですか?作者側の感情というよりはむしろ受け手の感情をいかに最大限引き出すかというほうに目的があるような気がする。それはしょうがなくて他人のことなんて結局分からないわけだから。他者ベースで作品は作られる。作品にとっては作者でさえ他者なんじゃないのと思ったりする。支離滅裂だな。分かってください。

ねえ明日の給食もナンだよ。

俺はいつもパンにジャムを塗る時映画『宇宙戦争』でイライラしながらジャムを塗るトム・クルーズの真似をしている。今日も食パンにバターナイフでチョコクリーム塗るとき乱暴に慌てた感じのあのトム・クルーズの演技を真似してた。誰も観てないのになんでこんなことしてんだろう。

誰も観てないのにすることってあって。やかんでお湯を沸かしてやかんがピーッてうるさく沸いたことを主張する音が鳴り出したら「はいはいはいはい」ってVTuberのばあちゃるの真似しながら近づいてヒーターのスイッチを切るとかしてる。それはどうでもよくて重要なことは映画の俳優の演技が鑑賞者の自分の肉体感覚にかなり影響を及ぼすことで。

昨日久しぶりにちゃんと映画を観て『最強のふたり』っていう最悪のタイトルなんだけどいや内容的には最強のふたりといってもまあ別にいいんだけどタイトルなんだからもうちょっとかっこつけてもいいんじゃないと思った。でその映画の主人公の黒人の動きが好きで観ながら身体が勝手に表情の真似とかしてた。観終わったあと外に出たら黒人の歩き方で歩いてて黒人になったみたいで楽しかった。

映画に限らず映像表現にはそういう観た人の現実っていうか肉体を侵食するほどの力がある。真似というところで言えば作画の良いアニメを観たあととかもSUGOI作画の歩き方になってたりする。こういうの面白いと思う。具体的にそれが何になるのかとかは分からないけど。ともかく力があるよなーって。

人の日記の感想言うのってどうかと思うんだけど人の日記読んでて全然知らん人に話しかけたりしててすげえと思った。僕は人に話しかけたことが無いから。なんでこんなに怖いんだろうと自分でも不思議なんだけど人に話しかけるとかまったくの他人と唐突になんの前触れもなくコミュニケーションが始まるって状況をまったく想像できない。嘘。想像はできるけどあまりにも恐ろしくてやろうと思えない。

まあいざ始まったらなんとかなりそうではあるけど進んでやろうとは思わないよね。これを読んでる人はいや好きにしたらええやんと思うだろうけどさ。思ったことくらい言わせてよ。あー僕たまにこういうこと言うな。なんか余計に他人がどう思うか考えてそれの反論を先んじて用意するようなことを。話しかけられないのってこういう性格が原因だったりするんだろうか。

コミュニケーションといえば人とコミュニケーションした日に部屋に帰ってきたらコミュニケーションの内容を思い出して自分の言ったことの粗探しをよくして悶絶してる。ネット観てるとまあそういう人は多いから別に自分が特別ってわけじゃないよね。普通だと思う。こう言ったけどもっと良い言い方があったんじゃないかとかそんなこと言うんじゃなかったとか。

そういうこと考えてると関係全部面倒になる。二度とコミュニケーションなんてするかよって。僕の人生全部こうで、何かをやる→二度とするかよってなる→またやる→二度とするかよの繰り返し。難儀だなと思う。昔一瞬いたことがある恋人にもこんな感じだったから最悪だったと思う。今はほとんど独りでいるから気楽でいいな。誰にも少なくとも感情的な迷惑はかけてないしさ。

根暗がよ。