日記『2019/6/13』

King Gnuの白日という歌を聞いた。今日本で一番聞かれている音楽ってなんなんだろうって気になって調べてランキングの上から順番に聞いていった。そしたらKing Gnuの白日という曲があって、

これはにじさんじの桜凛月というライバーが葛ンボというコラボ(あ、葛ンボというのはにじさんじの葛葉と桜凛月のコラボ名またはその2人による生配信を指すんですが、これが本当にぎこちない会話で、あ、これは二回やってるんですけど、一回目を観てからの二回目はマジで最高だったので一回目も二回目も観たほうがいいですおすすめですどっちも二時間近くあって本当に腹いっぱいになれる)の前に歌いまくって声を枯らす原因になった歌として記憶に新しかったから「おっこれかあ」という感じで聞いた。

ヒット曲というわりにあんまりそれらしい単純なキャッチーさがあまりなくて複雑な感じで、でも歌詞はわかりやすく心に刺さる、今っぽいものってこんなんなんだと思った。サブスクとかユーチューブで大衆の耳が肥えたのだろうか。関係ないけど大衆という言葉を使うと自分は大衆ではありませんよという暗黙のエクスキューズがあるように思えませんか。でも大衆って実際あるしどうしたらいいんだよ。マジョリティーとか?今度からマジョリティーって言うか。

King Gnuの白日。これは本当にサビが最高で、引用すると《真っ白に全てにさようなら/降りしきる雪よ/全てを包み込んでくれ/今日だけは/全てを隠してくれ》という歌詞で、僕はこの全てに賛成します。賛成というか共感というか。真っ白、全て、雪、包み込む、隠す、今日だけは。うん最高。それぞれのイメージとしては普通なんだけど、僕はこれと同じようなものをすごく詩的な抽象的な次元で心の中に持っていて、それは僕の漫画を読んでくれる人ならなんとなく察してくれる思うんだけど。いやお前真っ白って言葉が好きなだけではとも思う。良いよなあ真っ白。本当の世界はどこまで行っても真っ白くて広大で終わりのない平面だから。

音楽ランキングの話に戻すと、色々聞いていって、いくつかは「これは素晴らしく良いね」と思えた。でも同時になんかその出来の良さ具合、大衆の感性の研究され具合を思って、そりゃ良いと思う人も多いよなあと打ちひしがれる気持ちになった。その巨大さ果てしなさに絶望した。「全員倒す」(https://twitter.com/simizu_ju/status/1127930517985185795)ってこういうことかなと思った。

次の漫画の準備を進めている。ずっと次の漫画のことを考えている。なんとなく人間関係の推移としてのいわゆるドラマにうんざりしてしまって、それ以外のことがしたいと思っていた。川から拾ってきた綺麗な石を集めた収納ケースを見て満足する、みたいな、人も風景も映ってないなんか良い写真とか、意味の見えづらい詩とか、そういう漫画がやりたい。ずっとやりたい。ところが…という話で。

「感情なんてよ…」と思って真面目にぐちゃぐちゃの無秩序な悪夢みたいな話を書いていたんだけど、どうも物語としての焦点が合わなくて悩んでいた。焦点というのは例えば理由とか必然性とか通底するテーマとか、そういうのが曖昧だった。色々考えているうちに自分の作り出したその変な物語の流れの中に急に単純なドラマを見出して、見出してというか作り出して、それを元にテーマやら出来事やらを諸々整理したところ、あっさり全ての筋が通ってしまったから、やっぱり感情っていうかドラマは必要なんだなって。始めに戻る。一生ドラマから逃れることのないお前の漫画。

この前僕が2年前くらいに描いていた短いいくつかの漫画を今描けるかということを聞かれて全然描けるよと答えたけれど、技術的にも発想的にもそれは多分実際全然描けるんだけど、制作の動機とか労力とかそういう次元で言えば描けないから、やっぱり総合的には描けないと答えるのが正解だったかもしれない。なんとなく今は「これは描いてもしょうがないな」と思う水準が高くなっていて、よほどよく考えないと描くべきものに思えない。以前のように詩の現実は漫画の現実になるのだそうすると面白いのだということを無邪気に思えなくなった。さっきの結局ドラマが必要だと思ったとかもその現れで。なんか何も考えず見たいものだけ見たい気もするし、でもそんなものはくだらないよと思う自分がそれを止める。

ある時期から漫画にある一定の量を求めるようになった。それは確実に藤想君の漫画を横で見ているからなんだけど、量を成立させるためにはドラマがやっぱり必要なんだと思う。僕も一応これでも読む人のことをちょっとは考えていて、読者と全く関係の無い無意味にすら思える暗号みたいな画面が何百ページと続いたらうんざりしてしま………いやそれはそれで読みたいな。読みたくない?は?なんの話してたんだ?今度なそれは今度やろうな。あの頃みたいな無邪気さで誰も彼もを置いてけぼりにしてやりたい。売れないだろうけど。ていうかコミティアで売るっていう発想がもうだめ。ピクシブでいいだろうが夜。物体の本が欲しい人にはオンデマンド製本とかでさ。

最近数学を真面目にやっていて先生に激詰めされたり先輩に分からないところを教えてもらったりしている。数学をやっていると絵で言えば目の書き方や髪のツヤベタのやり方を人間の絵の全体像というものを知らずに学んでいる感覚になる。今日はその人間の全体像を知ることができた。これまで学んできたあれやこれやというものが、いったいどこに使われるべきテクニックだったのかが、直感的なイメージとしてもたらされるという経験をした。綱渡りみたいな数式を連ねてひとつのイメージが出来上がっていく、そのイメージの中から必然的な要請としてテクニカルな数学の方法が現れる。最高。全体をやりつつ細部もやりつつ時にはどちらかに集中してというふうに、全体と細部というものが相互に理解されることで一つの考えが頭の中で形になる。しかし細部を積み重ねていずれ全体へと至るという絶望よ。こんな経験ができるなら方法としてどうすればいいのかは分からないが、もっと前から全体と細部を同時に学んでいればよかったなと思った。

俺の参加してるディスコードサーバー動かなすぎる問題というのがあります。別に動かなくてもいいんだけど、ツイッターのTLみたいな感覚でディスコード開くと動かなすぎてオイオイ死んでるのか?と思う。死んでるのは俺のコミュニケーション能力だろ。クソが夜。でも実際普通の会話って何話してるのか全然分からない。僕には人に何か話せるほどの内容も記憶も思想も無い。なんも無い。ここ数年本当に数人の人としか話してないけどなんの話したとか全然覚えてないしこれはコミュニケーション能力とかいう以前に失礼だな。あーあ。

同じ経験や時間を共有するということ以外に、人との時間の過ごし方を知らない。僕が漫画やツイッターをやってるのも何かを伝えたいからとかじゃなくて、時間と経験の共有がしたいからなんだと思う。思い起こせば小学生の頃隣の席の友達に笑える落書きを描いて笑ってもらうのが大好きだったし、難しい折り紙の本を持っていって僕と似たような性格の友達とその本に従って黙々と一緒に同じ折り紙を折ったり、もっとさかのぼって幼稚園の頃にはレゴの安全版みたいな柔らかくて大きいレゴみたいなやつで友達の家に行って黙々とそれでロボットとか作ったりしてた。俺ってさ、やってることずっと同じなんだよな。経験、時間、感情、その場の空気の共有、それ以外のコミュニケーションを知らない。

話ぜんぜん変わるけど日記、生活の記録、というのを見るに、これほど混沌としたものも無いなと思う。でもそれはその混沌は本当に実際に現実生活なんですというだけで許されるんだよね。最高だな。飽きるまでこのクソ長文日記続けるぞ。まあ二週間くらいで飽きるだろうけど。