日記『2019/6/17,18』

ボストンダイナミクスのパロディ映像(https://www.youtube.com/watch?v=dKjCWfuvYxQ)が面白かった。ボストンダイナミクスのロボットってなんか嘘みたいな動きしますよね。通常想像するロボットの動きじゃない異様さがあって映像とかでロボットが動いてるの観ると非現実的でCGっぽい。現実は想像より奇妙なんだよ。でそういうCGに見える映像をさらにCGでパロディーするとどうなるかというのがこの映像で得られた感覚で。

この映像のロボットのCGっぽさってよく見たらまあCGだなと分かるんだけどそのCGっぽさが逆にボストンダイナミクスの実際のロボットっぽくもある。CGに見える現実と、現実に見えるCGの相互の作用があって不思議で面白い。

不思議といえばこれはアニメ版『宝石の国』の不思議さに近いものがあるように思う。『宝石の国』は全編CG作画でキャラとかも完全にCGの範疇にある動きをするんですね。でも『宝石の国』の世界ははるか未来の話でかつキャラ達は生きた宝石であるということを考えるとそのCGっぽさというのはまさにそのまま『宝石の国』世界の現実なのではないかという感覚になる。CGらしい動きをその世界の現実のものと思える。意味分かんないだろうけどまあ観たら分かると思う。観てください面白いので。

人間のお局「あのさあ、君さあ、もう人間やめたら?」
人間として生きること自体が社会性を持った労働だったとしたら最悪だなと思った。悪夢。

人に心酔すること。その人が何しても何言ってても肯定してしまうことってあって危険だなと思いつつやめられないよね気持ちがいいから。自分のいいね欄がその人のツイートで埋まってネトストみたいになっちまう。その人がライン超えたら超えたって分かる程度の感覚は自分は持ってると信じたいけど誰も推してる人がライン超えてないので分からない。そもそもライン超えてる人推さないし。でもすっかり心酔してたらそういうことも分かんなくなるのかな。怖い。

できることはなんでもしたいなと思う。偏らずに自由にいつでもすべてのものにたいして意識が開かれていて平等に公平に適切に飛躍を選択することができたらいいな。理想。

今日は自転車に乗って帰ってくるときあらゆる狭い道(電柱と塀の間とか)に見えないピアノ線が張られている妄想に取り憑かれて自転車から降りて押して帰った。たまにこんな感じにありもしない危険に怯えることがある。現実的な妄想って妄想のままで終わらない。暴走して本当にそうなんだと思いこんでしまう。普通に危ない気がするけど思いついた時点で囚われてるから逃げられないんだよな。考えれば考えるほど人間関係に向いてない。親密な人が増えれば増えるほど怖い妄想が加速する。

ひとこわ。

「歴史は繰り返す一度目は悲劇として二度目は喜劇として」って言うけど個人的な好みとしてこれの物語バージョンを考えるとしたら「物語は繰り返す一度目は喜劇として二度目は悲劇として」という感じになると思う。悲しみ→喜びという展開よりは喜び→悲しみのほうが意外性が大きくてドラマチックに思えるから。意外性が大きいということはそれだけ強い驚きがあるということで特に理性的な驚きは面白くて良い。

驚きにも色々あって一方には反射的な驚きがあり他方には理性的な驚きがあると思う。驚きの種類を自由に多彩に操作できたら良い創作ができそうだな。でも生活のなかでは絶対に驚きたくない。現実では予想外のことが起きないよう起きないよう動いている。まあだからこそ非現実の世界で驚きたいんだと思う。逆に生活にも予想外のことや驚きが無いとだめだと言う人がいてそういう人の言い分もわかるんだけど押し付けないでくれよと思う押し付けないでくれたら実際なんだって好きにしてくれていいし。と言いつつ現実は一つしかないのであってせめて共有部分だけは無感情でフラットな感じにしといて欲しい。現実が何個もあってそれぞれでそれぞれの世界を持てたなら平和なのにとよく思う。それはそれで実現したらつまらなそうだけど。現実の一個しか無いどうしようもなさみたいなものから人類はいつ解放されんのかな。解放されたいのかも分からないけど。

SFを読んでるとその世界の社会がはるか遠い未来で科学技術も信じられないほど進歩してるのに人間らしいことしてて絶望する。そうなってる理由としてはSFも物語だからある程度現在の人間の人間らしさに基づかないと物語として成立しないというのがありそう。現在のっていうか人間の人間らしさ根底にある不変的な古代から続く人間性ってあるんだと思う。そしてだとしたらそんな人間性から離れた物語ってありうるのだろうか。ありえなそう。

実際ハードSFと銘打ってるものでさえ人間の根底にある人間らしさを捨て切れないように思う。「ハードな空想科学をやりつつ核になっているのは人間ドラマなんだよ」という褒め言葉をよく見る。やっぱり物語としてそこは捨てられないんだろう。捨てたらどうなるかと考えたら多分誰も理解できない怪文書ができるだけだろうから。物語の限界はいつも読まれる人間の人間性の反映としてあるということだと思う。

物語に関連して言えば傲慢にも「どうしてそんなに典型的なのさ」と思うことがある。世間的に受けてるもので予想外なものって少ないように思えてそれは大衆受けに対して洗練されたものの最前線だからということで分かるんだけど色々見慣れてるよなと思う。こんなこと言ってるけどいざ最前線の漫画読むとまー面白いよね。それでまたなんの努力もしてないのに謎の悔しさが出てきたりしてそういう自分にうんざりする。

表面をさらってるだけだから深いことは分からないけど短歌にも同じようなことがあると思ってて。小難しい言葉を使う短歌があるとしてでもその小難しい言葉というのは何か「小難しい言葉」の典型として現れてきてるように思える。典型的なものから逃れるということがいかに難しいかということを思う。完全に独立した表現というのがありえないにしてもせめてユニークさへの指向が失われないと良いなと思う傲慢にも。

最近読者の期待をあざ笑うかのように読者の思い通りにならないタイプの展開をする漫画が注目されてることが多い気がして。そうなってくると逆にそうなんのかな~と思ったそのとおりになる漫画がバズってるとああやっぱりそっちもいいよねと思った。良いものは良いんだよな。典型的だろうがユニークだろうがさ。いやさっきの話全部パーじゃん。でも一旦そういうことを考える。通過するということが大事なんであってさ。一旦偏った考えを経ることで得られる境地みたいのあると思う。あるか?馬鹿なだけだと思う。はい。

帰宅してすぐ眠ったら頭がクソ痛い。