詩『ノスタルジア(discussion)』

簡潔な星座は無の形而上学をデザインする、自動的に、見た瞬間組み合わされる夢の王として。飲んだ瞬間失われる夜の経験のように、私は互いに反証し合う行為と記憶を肯定する。肯定から無の経験則は得られる。経験内部の時間とは数字ではなく、運動の積み重ねにより生じる。運動の積み重ねは、すなわち振る舞いとして現象する。例えば、私が静止したとして、完全な静止は得られない。静止は静止という名の運動だ。私は不完全な静止をする。その中で時間を知る。行為に対する反作用として、時間を得る。

感情を拒否し、両耳から違う音が鳴ることに気をつけている。精神に何が生じるのかということを、常に注意深く見ていく必要がある。ひとつと言えぬひとつの意味を、小さく小さくちぎっては噛んで、ちぎっては噛んで、ちぎっては噛んで、私は暗闇を噛み砕く銀色の物体となる。精神とは何かということは、感情に対する身体であるような、運動と時間に対するものとして理解される。音楽が熱湯の上で、熱湯の周囲を覆う白い円壁の上で、無燃料の炎となってゆらめていている。光による影はある。その影が実際に穴として機能し、底を持つ。穴は終末に隠された真実の第九を読み込む。狂ったような音楽が、この何もない場所に雪景色の中の決闘を喚ぶ。それは「記憶以上のもの」の発動だった。

単独である限り、悪も善もどこにも無く、私はただそれらの流れを橋の上から眺める散歩者だ。散歩者は散歩すると同時に、不安の鉄縄に縛られ、空間の上下動を禁じられている。明朝には私は私自身の規定を、それまでと全く同じ仕草の中で忘れてしまうだろう。今は、無性に寒空の夢が見たい。一番冷たい月面上の夢を。自動車は遠くから見れば、一本の曲がりくねった鉄の大樹だ。私は、大樹内部に挟まれて死ねと願われている。誰に?誰だったか。名前など無かった誰かだ。唐突に、流れ星がその誰かを捏造する。そして誰かがここに来る。血だらけになって私の隣に座る。その苦しみを私は共有できない。

私は別れを押し潰した建材で、ひとつの白い塔を建てる。雪の影と同じ色の白だ。塔は毛の一本一本として無数に形成され、私はその上を悠然と歩く不可能性の巨人だ。考察の対象はいまだ不明瞭な奥行きを持っている。空間は歪みきり、歩くこともままならない。ならばと、大地の皮膚表面は気を使い、自身を液体として、私を湯・大地の中に沈める。ここは沈んだ先の世界液体の内部だ。その世界のやわらかな椅子に眠る一匹の子猫が、ゆっくりと目を開く。