20240220

「全て」が「滑って」になる時、土砂崩れのようなひどい災害のイメージになる。

今こそ詩を読む時と思い立ち、ランボーの詩集をkindleで買って読むなどし、やっぱし書いてあるものが現実すぎて、面白いんだけど、でも現実だしな、という10年前と同じ感想を持った。Amazonの好きなところは昔買った本をいつ買ったかがわかることで、僕が「地獄の季節」という薄い岩波の詩集をネットで買ったのは2014年のことらしかった。小林秀雄のたまに文語体の分かりづらい詩を読んで、結局何がいいんだか分からないけど、その薄さやタイトルや文章のスカスカな感じ、文字がデザインとして紙面にある感じが好きで、最後まで実家の本棚の手に取りやすいところに置いていた。結局何がいいんだか分からないのに、何かあるはずだ、いつかわかるはずだと思っていた。なんつうか、現実をやってますよという地に足付いた感が優等生っぽくて嫌なんだよな(嫌なのかよ)。隙がないっていうか、つまらない。でもこんなに評価されてるんだから何かあるはずなんだ。それは、評価されてるものってだいたいそんなものでしょう。いやそうなんだけどさ、何かあるかもしんないじゃん。(何かってなんだよ。(なんかこう奇跡みたいなことが起きるんだよ。))その点、同時期に買って読んだマラルメは良かったな。とにかく分厚くて、本当に意味がわからなくて、注釈が本の大半を占めていてそんなんありかよと思ったりした、言葉が崩壊してて、でもそれは僕の読み方が悪くて、ちゃんと読めばちゃんと分かるんだろうなとも思ったけど、僕は僕の読み方で得られるものが好きだったんだ。それはいつしか自分の詩になり、漫画になり、やがて無へ消えていった。今はそれがどこにあるのか分からない。ランボーになってしまったのかもしれないし、マラルメの正しい読み方になってしまったのかもしれない。そう、正しさだ。正しさに、僕はやられてしまったんだろう。テキトーにやってはいけなくて、意味があって、目的があって、機能があってロジカル、体系があり、ビルのような耐震性を備える、そういったものをいつしか自分に課してしまったのだ。(本当ですかそうでもないんじゃないですか)すべて仕事のせいでしょうか。年のせいでしょうか。めちゃくちゃな言葉を吐くのに韻というのは本当に優れているけれど、すぐさまそれは韻の流派に回収され、韻の競技性に巻き込まれて終わる。僕がやっていた、もしくはやりたかったのは、もっと台風のような怪獣が暴れる最終回だった。体が飢えと舌に引っ張られ、心を置いて出かけるような序章だった。今どこにそれがあるんでしょうか。あなた知りませんか。「それ」がどこにあるのか。