黒い靄

この世界で恐怖と呼ばれているものの一部が、僕の手のなかにも存在するとしたら、それはナイフやフォークのような明らかに凶器然としたものではなく、いつでも誰かや何かに感染し、拡散することのできる、自由で解放された力で満たされた、黒い靄の姿をしているはずだ。その靄のなかでは、不定形の異形が生まれたり、死んだり、生き返ったり、融合したり、分裂したり、コピーされたり、新しい能力を身に着けて、それを敵を殺すために使ったり、味方を治療するために役立てたりというような営みを、誰にも捉えられない速度で繰り広げている。それは、僕の手のなかに確かにあるのに、僕がそれを目で見て認識することができないのはまったく不思議なことだ。見る人が見れば、そこに靄があるよとすぐに分かったりするんだろうか。例えば、そういうことを専門にしている精神科医とかなら、君の手のなかには靄があって、その靄の向う側には、このようなものが広がってございますよ、あなたには分からないかもしれませんが、私にはそれが完全透明に分かるんですよと、教えてくれたりしないだろうか。ああでも、もし、本当にそういう人がいるのなら、僕はその人を殺さなければいけないんだ。僕だけが持っているはずのその靄は、ほとんど僕の一部のように思えるし、他の人にそれが知られてしまったら、僕がこの世に全然不要になってしまうじゃないか。こんなことを怖がるのは馬鹿げているけど、自分の心がいつどんな入力によって、おかしな出力を返してくるのかなんて、僕にもわからないし、それをコントロールするとか、心の動作を改造する方法なんて、全く分からないのだから仕方がない。僕の手のなかにある黒い靄は、他のひとの作品のなかで見つかることもある。これは僕の手のなかにあるけど、他のひとの作品にもあるということは、なんて自然で嬉しいことなのだろう。僕の手は世界と繋がっている、その証拠だと思うから、嬉しいし、楽しいのだ。その作品の作者のひとは、僕のことや、僕の手のなかの黒い靄のことなんてもちろん知らないし知られてはならないのだけど、僕には分かる。あなたの脳が、僕の手と繋がっていることを、僕だけが知っているんだ。これは精神科医にも、研究者や専門家、友達や家族、恋人だって知らないことだ。僕だけが知っていて、僕だけが、それが本当にそうであることを理解している。これは誰にも秘密の黒い靄だ。これは僕の真の秘密と言える唯一のものだ。他のどんな秘密よりも意味不明で、壮大で、一見嘘のようで、でも本当の、素晴らしい僕だけの秘密だ。