握手(ピアノ)

階段を登っていたら、全身白タイツを着た7人のガキ共が、手は繋ぎなよおー!と叫びながら僕を追い抜かし、走り去っていった。僕はショックでしばらくその場から動けず、茫然として立ち止まってしまった。僕の手が、まるで僕の手ではないかのように、誰か遠くの白骨死体に操られるかのように、自動的に、じりじりと動き始めた。何かと手を繋ぐために最適な形になった僕の手は、しかし、絶対に何とも手を繋がない。はっきり言って、僕は誰かと手を繋いだ経験というものが、すっぽり欠けている。子供時代でさえ、繋いだのはせいぜいが指くらいのもので、しかも、指を掴む側の役目になることは、一度としてなかった。僕は北北西幼稚園桃組最弱の子を思い出した。いつも女の子の集団に罵られて、爪が手のひらに食い込むほど手を固く握るのが常だった彼。彼がどうしても僕と手を繋ぎたいと言うから、仕方なく掴ませてあげたくらいで、それ以来、指とですら他人と手を繋ぐことはなかった。彼と手を繋いでから20年以上が経って、世界が白黒になる濁った灰色の曇り色の日が来て、僕は彼と再会した。彼は相変わらず人に罵られているようで、固く手を握る癖は抜けておらず、むしろずいぶん強化されているようであった。僕は彼と再会して、すぐにそのことに気づいた。彼のぬめーっとなだらかになった真っ白い、丸い、ドラえもんのような手。それだけで僕は、彼の20年がどういうものだったのかを察した。つまり、彼はずっと同じだったのだ。ずっと同じように誰かに罵られ、その度に手をつよく、つよく握って、固めていたのだ。手を固く握ることで守られる聖なる鹿の過去のフロンティアーは、誰にだって残されている。僕は、慎重に彼の手に触れ、もうちょっとちゃんと丸くなれるんじゃないか、頑張ってみなよ、と、慰めのつもりで、軽く笑いながら言った。彼はそれを聞いて、ああーーあ、安心したよ、相変わらずだなーー君は、と笑った。彼はいきなりぼおーーん、と言って、空気に拳をいきおいよく突き出した。こうして、よく人の顔を殴ったものさ。でも不思議と、相手は痛がらないのよね。むしろ気持ちよさそうにそれを受け入れたよ。変だよねーー。僕の手には癒やしの力が宿っていたんだ。病人だって、かんたんに治せるからね。僕は、僕の丸い手を誇りに思っているのよ。手は丸ければ丸いほど強い。君は僕にそのことを教えてくれたよね。灰色の空から、爆音のノイズミュージックが流れ出す。それから僕は、彼と別れてどこに行くかも分からない電車に、何も考えずに乗った。乗客は全員が全員、下を向いていた。驚いたことに、全員が白いソフトボールをにぎにぎしていた。それは情報握力を強めるのに良く、どうも最近流行っているらしいのだ。僕は、眠るときよりもしっかりと目を瞑って、意識して、脳裏に幻を慎重に描き始めた。僕は、彼が握りこむ、細く、透明なピアノ線を思い浮かべる。彼はピアノ線に体重を預けて、アーーッとぶら下がり、あの固く白い、丸まった手を、さらに白くしていた。彼の血は、もしかしたらカルピスよりも白いのかもしれない、それほどに白く。ピアノ線によって、彼の指が切れてしまうのではないか、そういう不安も生まれてきたが、彼はにこりと笑ったまま、過去を手のなかに隠し続けた。彼は、全ての記憶を手の中に握り込んでいるのだ、と思った。おおっ?僕を操っているのは、彼の握っていたピアノ線ではないのか?僕の脳裏をピカッと、ピカピカッと磨かれて白く光る白鍵のような思考が流れていく。手は、手は繋ぎなよーー!白鍵は、白いタイツの7人のガキの姿をとり、僕の七本の指のそれぞれに憑依する。ひゅーっと。落ちるように。僕の爪の隙間に。ドレミファソラシ、赤黒く。どうせ僕の手を繋がない人の影が、階段の上から降りてくる、音もたてずに、とても静かに、滑るように、なめらかに。iPhoneの着信音を響かせながら、君は電話を無視しながら僕に近づき、そして、離れていく。素通りだ、と声に出た。それは素晴らしく、僕たちには素通りこそがもっともふさわしいいつもどおりだ。僕たちの乗るこの階段状のピアノは、二重の音を拒絶する。だから僕はこのまま立ち止まるしかない。僕の弟は、どうやっているのか、話す言葉が必ず二重になってしまう。どうやってるのと聞くと、すれ違ってるだけ、とか、上顎と下顎の握手、とか、よくわからない説明が返ってきたけれど、言葉を手に例えるのは、なんだか納得がいった。僕は言葉でなら、手を繋げるかもしれない、と思った。言葉を持たないピアノと、僕の手は相性が悪い。言葉でこそ、僕は誰かの手に握ってもらえる、そんな気がした。僕の魂の棚に飾られた、切り取られた手首。固く握り込まれて、丸く、白くなった僕の、大切な手首。彼の手首の白き闇のなかに僕がいるのだ。僕がいていいのかどうかは分からないけれど、それでも確かに、僕はそこにいるのだ。この先二度と出会わないであろう、ヒトの形をした暗闇に、冷たくしてごめんなさい!次に会ったら、ピアノのような握手でもしましょう、と叫んだ。僕の声は多重に合成されて、めちゃくちゃな音の選びの不協和音になってしまった。さすがに、僕は僕の弟の兄だ。7人のガキ共から跳ね返ってくる不安定な合唱に、僕は言葉の手を伸ばす。うるさいな。繋げないと言ってるでしょう。僕は手を繋がないことに何度でも成功して、そのたびに7人の白いガキとすれ違った。彼らと僕の間には、ゆるやかなテンションで張られた透明なピアノ線が存在した。